食堂かたつむり−映画−

 食堂かたつむりの映画を観てきました。☆ネタバレ注意☆

 元々知り合いの方が文庫を貸して下さって読んでたわけです。今ならまだ映画やってる、せっかくだから観に行ってみようかなと。人はまばらでしたが年配の方や、とりわけおっちゃんが多かったのが印象的でした(おっちゃんばっかり5人連れとか)

 おばあちゃんの形見の糠床やイライラしたときに地面に叩きつけるオカンの顔を描いた石、ふくろう爺の存在、おいしそうな料理の数々などなど、小説を読んでほわほわとイメージしていたものが素晴らしく表現されていて観ていて嬉しかった。製作者の方々が女性が大半だというのも女性のきゅんとくるツボを突きまくれる要因じゃないでしょうか。

 エルメスが料理になるシーンで原作では主人公・倫子が解体の責任者としてトドメをさすところから頭をかち割ったり、いろいろな部位を切り分けていくわけですが、映画ではトラックにのせられてドナドナのように連れて行かれて、肉になって戻ってくる。はたしてコレで映画だけを観た人に「今の今まで生きていて、一緒に暮らした存在が時を止める。でもそれは他の人の都合ではなく自分たちが生きるためのことなんだ、エルメスの命をもらって生きるんだ」とまで思えるようになるのかは疑問でした。かといって映画館のスクリーンで頚動脈に刃を突き立ててのシーンがみたいかというと「( ̄ヘ ̄)うーん」で。映画の尺やらなにやら考えて全てを盛り込むことの難しさを感じました。
 これは最後の鳩のローストを作るシーンにも言えることで、原作ではオカンの死にどうにもこうにも立ち直れない倫子のもとへ鳩の姿をかりたオカンがその身を食堂かたつむりに突撃させて息を引き取った状態で現れます。自分を料理して倫子の身体に入ることで内側から勇気づけ、共に生きていき、また料理することの喜びを思い出して欲しいということだと思います。だけど映画では倫子自身がもぅ立ち直りはじめたときに鳩が現れます。料理し自然の力強さに改めて感動し声を取り戻すところは変わりませんがオカンの存在が少し軽くて残念でした。ここでの鳩はオカンのかわりというよりも食堂かたつむりを見守り続けていた守り神のような存在なのかもしれません。
 あまり原作と映画を比べすぎるのはよくないかもしれませんがこの2点は私にとっては少し残念なところでした。


 でも、映画だからこそ出来ること、倫子の創造を具現化すること。それもまた女性のきゅんをついてくるコラージュで画面を彩ったりはホントもぅ素敵でした。それとパンフレットもすんごい可愛い。表紙がぽこぽこしてるだけですでにきゅんきゅんです。配色も素敵だし、随所にちりばめられたイラストも消しゴムはんこでプリントしたようなほわほわ感が可愛らしいOo。。( ̄¬ ̄*)


 私情ですがこあも今年初めにのどにポリープが出来て2週間ほどは完全にしゃべるコトができませんでした。思ったことをすぐに口に出せない、人に伝えることの出来ないもどかしさ、普段何気に使っていた「しゃべれる」ことの有難さを身にしみて感じた2週間でしたが私のような肉体的の時間薬で治していくしかないのと、倫子のように精神的にくるいつ治るのかなんて検討もつかないようなのでは不安の度合いはかなり違うと思います。それでも、もともとしゃべるのは苦手な方だし私には料理があると前に歩いて行けるのは凄く強いことですね。自分の中に「コレだけは」をもてることは何よりも宝であると思います。
([お]5-1)食堂かたつむり (ポプラ文庫)